『ドン・キホーテ ガイド』 (Don Quixote, Don Quijote)

『ドン・キホーテ』 (Don Quixote, Don Quijote) は、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説。
ただし、スペインでは「ドン・キホーテ」では通じないことが多く(ドンは呼び掛けの称号のため)、
定冠詞を付けて「エル・キホーテ」(el Quijote)と呼ばれる。



ドン・キホーテとサンチョ(ギュスターヴ・ドレによる挿絵)

概要 騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く。「デ・ラ・マンチャ」はかれの出身地のラ・マンチャ地方を指す。つまり「ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿」と言った意味合い)と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。 1605年に出版された前編と、1615年に出版された後編がある(後述するアベリャネーダによる贋作は、ここでは区別のため続編と表記する)。 旧態依然としたスペインなどへの批判精神に富んだ作品で、風車に突進する有名なシーンは、スペインを象徴する騎士姿のドン・キホーテがオランダを象徴する風車に負けるという、オランダ独立の将来を暗示するメタファーであったとする説もある。(スペインの歴史、オランダの歴史を参照)実在の騎士道小説や牧人小説などが作中に多く登場し、書物の良し悪しについて登場人物がさかんに議論する場面もあり、17世紀のヨーロッパ文学についての文学史上の資料的価値も高い。 主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込むなど、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれる。年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける姿が多くの人の感動をよんでいる。 また、聖書の次に世界的に出版されており、正真正銘のベストセラー小説・ロングセラー小説でもある。2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得した。

制作の経緯 前編の正式な原題は、El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha(英知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)。セルバンテスは前篇の序文の中で、牢獄の中でこの小説の最初の構想を得たことをほのめかしている。彼は生涯において何度も投獄されているが、おそらくここで語られているのは税金横領の容疑で入獄した1597年のセビーリャ監獄のことであろう(ただし、「捕虜の話」など話の本筋ではない挿話のいくつかは、それ以前に書いたものである)。セルバンテスは釈放後、バリャドリードで多くの家族を養いながら前篇を書き上げ、1605年にマドリードのファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版した。前篇はたちまち大評判となり、出版した年だけで海賊版を含め6版を数え、1612年には早くも英訳が、1614年には仏訳が登場した。だが作品の高い評価にもかかわらず、版権を売り渡してしまっていたためセルバンテスの生活は依然困窮していた。 後編は、Segunda parte del ingenioso caballero Don Quijote de La Mancha(英知あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 第二部)として1615年に同じくファン・デ・ラ・クエスタ出版所から出版された。前篇と同様に大評判となったが、セルバンテスは相変わらず貧しいまま、1616年に没した。 前篇はセルバンテスの短編集としての色合いが濃く、作中作「愚かな物好きの話」(司祭たちが読む小説)、「捕虜の話」、「ルシンダとカルデーニオの話」など、ドン・キホーテとは直接のかかわり合いのない話が多く挿入されている。また、前篇の第一部(ドン・キホーテ単独の一泊二日の遍歴)も、ひとつの短編小説としての構成をもっている。後編ではこの点を作者自身反省して、脱線を無くしている。


ドン・キホーテの像(マドリッド、スペイン広場にて)



風車に突進するドン・キホーテ(ギュスターヴ・ドレによる挿絵)

主な登場人物

ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 
本編の主人公。本名アロンソ・キハーナ。もとはラ・マンチャのある村に住む郷士であったが、騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなり、遍歴の騎士として世の中の不正を正すために旅に出る。自分をとりまく全てを騎士道におきかえて認識して暴れ回り次々とトラブルを巻き起こすが、騎士道に関係しないところではいたって理性的で思慮深い人物。もっとも尊敬する騎士はアマディス・デ・ガウラである。二つ名は「憂い顔の騎士(渋面の騎士)」もしくは「ライオンの騎士」。
サンチョ・パンサ 
「パンサ」は「太鼓腹」の意。もとはドン・キホーテの近所に住んでいた農夫であったが、「将来島を手に入れたあかつきには統治を任せる」というドン・キホーテの約束に魅かれ、彼の従士として旅に同行する。性格はいたって平和的な正直者で、人に騙されやすく奇行を繰り返すドン・キホーテに何度も現実的な忠告をする。大抵は聞き入れられず、主人とともにひどい災難に見舞われる場合がほとんどである。無学ではあるが、さまざまな諺をひいたり機智に富んだ言い回しをしたりしてドン・キホーテを冷静に観察する評論家のような一面もある。
ドゥルシネーア・デル・トボーソ 
トボーソ村で「容姿は醜悪で口からは悪臭を放つ百姓女」と周囲から評されるアルドンサ・ロレンソという実在の人物にドン・キホーテが妄想上の虚像を重ね合わせて自身の思い姫としている女性。ドゥルシネーアの美しさ・気だてのよさ・その他の美点を世界中の人々に認めさせるのがドン・キホーテの遍歴の目的のひとつである。
司祭 
本名ペロ・ペレス。ラ・マンチャに住むドン・キホーテの友人。騎士道に執着するドン・キホーテをラ・マンチャに連れ戻し、正気に戻すためにさまざまな策をめぐらす。
ニコラス親方 
同じく、床屋を営むドン・キホーテの友人。
ヒネス・デ・パサモンテ 
泥棒の罪で囚人となり、ガレー船送りにするため連行されていたところをドン・キホーテに助けられるが、他の囚人とともにドン・キホーテを袋叩きにして去る。
シデ・ハメーテ・ベネンヘーリ 
モーロ人(アラビア人)の歴史家であり、『ドン・キホーテ』の原作者。作中に直接登場することはない。『ドン・キホーテ』はシデ・ハメーテの記録をセルバンテスが編纂したものであると作中では説明されているが、実際にはシデ・ハメーテは架空の人物であり、『ドン・キホーテ』は完全にセルバンテスの創作である。
公爵夫妻 
本名は不明。後編にて登場。すでに出版されていた『ドン・キホーテ』前編のファンで、ドン・キホーテ主従を厚く歓待しつつ、様々な方法で彼らにイタズラを仕掛ける。
学士 
本名サンソン・カラスコ。後編にて登場。ドン・キホーテが発狂する以前よりの友人であり、ショック療法により彼を現実に引き戻そうと、自ら「鏡の騎士」なる遍歴の武芸者に扮して決闘を挑むも、あえなく返り討ちに遭う。そのため、「銀月の騎士」として再度挑み、今度は勝利したものの、結局、ショック療法自体は失敗に終わった。なまじ学が有るが故に机上の空論に固執してしまうのが短所

手が痛くなるほど、ブラボー。

ドン・キホーテ ちらし

有名なセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』を題材にしたこのバレエは、プティパの振付により1869年にモスクワ・ボリショイ劇場で初演されました。陽光ふりそそぐ南国スペインが舞台の楽しいストーリー、色鮮やかな衣裳をまとい次々と登場する踊りは高度なテクニックの連続で、プティパが愛してやまなかったと云われるスペインの民族舞踊の要素もふんだんに取り込まれた、見応えあるバレエ作品です。

新国立劇場では、当時のボリショイ劇場バレエ芸術監督ファジェーチェフ氏を招いて新制作の『ドン・キホーテ』を1999年3月に初演しました。プティパの精神になるべく忠実に、しかも今の時代にふさわしい庶民性を大切にした演出は大好評をいただき、再演のたびにオペラ劇場の広い空間いっぱいに明るさを振りまいてきました。

その感動の舞台が再びオペラ劇場に帰ってきます。今年はセルバンテスの原作が初めて世に出てからちょうど400年目にもあたります。プティパ振付作品が勢ぞろいした今シーズンを締めくくる『ドン・キホーテ』の、軽妙洒脱なストーリー展開を存分にお楽しみください。

<ものがたり>
スペイン、ラ・マンチャ地方。ドン・キホーテはサンチョ・パンサをお供に遍歴の旅に出かける。彼が立ち寄ったのはバルセロナ。町の人気娘キトリは貧しい床屋のバジルと恋仲。でもキトリの父親は貴族と結婚させたがっている。そこでドン・キホーテがひと肌脱ぐことに・・・

 ミシェル・モンテーニュ、トマス・マンとルネサンス時代の作家を紹介してきたが、今日も、ルネサンスを代表する作品の紹介。 セルバンテスは、スペインの黄金時代から没落までを見た作家で、自身も無敵艦隊に乗っていたという経験を持つ。

 スペインはラ・マンチャ地方に住むアロンソ・キハーノは、騎士道物語を読みすぎた結果、自分が物語に出てくる騎士であるかのごとく思うようになり、自らドン・キホーテと名乗り、百姓男サンチョ・パンサを供に、冒険の旅に出かける。旅先で、ドン・キホーテには、自分の目に写るものすべてが、騎士をたぶらかそうとする悪魔や敵に見える。どんなにサンチョ・パンサが違うといっても、とめても、聞く耳を持たない。 ドン・コホーテは、自分が頭の中に作り上げた世界にどっぷりとひたり、その世界の中でしかものを見ていないのである。

 しかし、ドン・キホーテの考え方は中世の騎士を見本としているだけあって、清廉潔白、公正なことこの上ない。そのため、緑の外套の紳士に彼の息子に関して与える忠告や、領主として赴任していくサンチョ・パンサへのはなむけの言葉などは、これほどまでに公明正大で明晰な考え方があるだろうかと感心させられるほどである。 そういった意味では、ドン・キホーテほど純真な人はいないといっていいのだろう。 また、ドン・キホーテに対して俗人の象徴ともいわれるサンチョ・パンサも、領主となったときの采配はなかなかに名領主ぶりを見せたから、彼もまた主人の影響をたぶんに受けた純粋な人だったといえる。 こういった純粋な人間をからかい、悪ふざけの対象にするような人間は、まさしく俗物そのものだが、笑いものにされていることにさえ気づかずに超然としているドン・キホーテを見ていると、俗物の領主よりはるかに高いところにいるドン・キホーテの姿がおのずと見えてくるようだ。

 正気なのか狂気なのか分からないドン・キホーテの傍若無人な言動はときに苦笑を禁じえないが、悪意のなさと本人の天真爛漫さが彼の行動を嫌味なものとせず、愛すべき道化者となっており、そんなところが時代を超えて彼が愛されるゆえんとなっているのだろう。


「ドン・キホーテ」(セルバンテス) 名声だけは知っていたが実際に読んだことのなかった「ドン・キホーテ」(牛島信明訳:岩波文庫)を読んだ。いろいろ個人的に思うところがあり、なぜか無性に長いものが読みたくなって読んだのだが、これが実に面白く、正直ぶったまげた。

 若い頃、映画「ラマンチャの男」を観た。主演はピーター・オトゥールだった。ネットに調べてみると1972年のイタリア映画である。僕は17歳だった。「見果てぬ夢」……馬鹿を承知の理想主義とでも言うべきテーマに、素直に感動できたのだろうと思う。

 だが、原作の印象は随分違う。著者は冒頭にこの物語の目的を、「騎士道物語が世間と俗衆に及ぼす勢力や影響を打破する」(永田寛定訳)と書き、荒唐無稽な騎士道物語に対する写実主義の立場を明らかにしている。事実、「ドン・キホーテ」に描かれる旅籠の主人や娼婦、山羊飼い、村の司祭、奴隷といった人々は、まるでバルザックを読んでいるようにリアルなのだ。映画のソフィア・ローレンのようにドン・キホーテに心酔する女性は最後まで現れることはない。それどころか周囲の人々は彼が騎士道物語を読み過ぎた狂人であることを知っていて、様々にからかって笑いものにする。同じ村の司祭やサンチョ・パンサだけが、この愛すべき主人公に好意的なのだが、ドン・キホーテが彼らの愛情を理解することはついにない。(後篇でドン・キホーテは正気に戻り、自らの狂態を騎士道物語による幻影だったと悟るのだが、この結末は小説の仕掛けを自分で解説してしまっただけで、意味はないと思う)

 結局のところ「ドン・キホーテ」は、馬鹿を承知の理想主義を貫くことが、どれほど滑稽で、無意味で、悲惨な人生をもたらすかを、これでもかこれでもかと書き綴っているのである。それでも読者諸君はドン・キホーテを愛するか、と問われているように思え、読後感は「見果てぬ夢」のメロディーに酔って納得できるほど単純なものでもない。牛島信明氏の解説によれば、セルバンテスは1571年のレバントの海戦に従軍したあと、回教徒の海賊船に襲われて五年間アルジェで捕虜になっている。11年後祖国に戻り、その間の武勲に対する報酬を宮廷に求めるが相手にされず、仕官もかなわず、「ドン・キホーテ」などの出版は五十八歳以降なのだそうだ。当時すでに中世の騎士道は忘れ去られており、その時代錯誤を笑うことは容易なことだっただろう。だが、セルバンテス自身が嘲笑の対象であったことを考えれば、ドン・キホーテが作家の諧謔性が生んだ主人公であることは想像に難くない。

 永田寛定訳の巻頭には、同時代のシェークスピアとセルバンテスを比較した長い解説がついている。十六世紀のセルバンテスを再評価したのがハイネやフローベールであったこと、ツルゲーネフに『ハムレットとドン・キホーテ』という評論があることなどが紹介されている。何も信じられないハムレットの悲劇と武士道を信じて疑わないドン・キホーテの喜劇を対比して人間性の両面であると論じることは確かに可能だろうが、生きるべきか死ぬべきかと苦悩できる人間と、回教徒の盗賊船にさらわれるなど運命に翻弄される人間とはそもそもが生きる土壌が違うのだろう、と僕は思う。誰もが(読書家であればなおさら)ハムレットの苦悩に自己投影したがるが、実際にはドン・キホーテであることの方が多い。だからこそ生まれるユーモアだ。

 ほんの四半世紀前まで、平等な社会と革命の大儀を信じ、実人生をかけた人々が、今は嘲笑の対象になっている。自ら北朝鮮に渡った人間は実際にピエロになったが、その姿を見せつけられても、同時代を生きた人間は笑うに笑えない。戦中、国家と国民のためと信じて命を落とした人々を簡単に笑えないように、後世の凡百が今の価値観で先人の生き様を笑うところにユーモアは存在しない。そんなことはセルバンテスの時代でも容易なことだったのだ。本当のユーモアは、笑うに笑えない当事者が自らを笑うときに生まれるものだと思う。他人を笑うな自分を笑え、である。

 第四十八章に書かれた芸術論は、今でも我々が《純文学か大衆文学か》、《芸術性か人気か》といって議論していることと何も違わない。何百年も人類は同じ議論をしているのだろう。ただし二十一世紀になった今も、他者を笑う人間ばかりがはびこり、そう簡単に「ドン・キホーテ」のような傑作は生まれそうにない。

はじめに  

 一咋年の9月例会『ドライビング・ミス・デイジー』で好評を博した仲代達矢さんが、再び演出の丹野郁弓さんと組んだ、新作の登場です。17世紀初頭のスペインの名作古典である、セルバンテスの長大な小説「ドン・キホーテ」を無名塾の岡山矢氏が簡潔かつ大胆に展開しプロローグの有る2幕15場の戯曲に脚色した作晶です。  
 バラエティーに富むストーリー、喜劇と悲劇、様々な要素がスピーディーな展開で進んでいきます。これまで、ミュージカルやバレエなどで舞台化された作晶ですが、セリフによるストレートプレイとして、新たな魅力の舞台が期待されます。  

あらすじ  

 ラ・マンチャに住むアロンソ・キハーノは、五十歳に手が届こうとする初老の田舎郷士である。騎士道物話を読み過ぎたせいで、 書物の中の出来事と、現実との区別が付かなくなリ、ある日、自分が遍歴の騎士であると恩い込み、その名もドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと勝手に改名した。早朝の太陽を背に、祖先伝来の古びた時代ものの甲冑を身に付け、錆付いた槍と盾を持って、痩せ馬のロシナンテに跨り、家を後にした。王国を餌に雇い入れた農民のサンチョをお供に引き連れ、物語の中の愛しの姫ドルシネーアを救うべく、乳母、神父、姪、床屋の親方らの引留めもあらばこそ、冒険の旅への出発とあいなったのである。  
 最初の相手はよくご存じの風車の冒険。街適筋を行くキホーテとサンチョは行く手に立つ大きな風車を見つけた。突然キホーテは、風車を悪党の巨人と思い込み、突撃の挙に出た。ところが、運悪く一陣の風が巻き起こリ、風車の羽根が勢いよく回りだし、砕かれた槍が四散し、巻き上げられたキホーテの身体が地面に叩きつけられたのだった。 
 傷付いたキホーテは、何とか馬に跨り、陽が沈みかけた頃、とある旅寵に辿リ着いた。しかし、そこを城と思い込んだ彼は、亭主を城主と、女将を臭方と思い込み、再び遍歴の騎士に引き戻された。挙げ句の果て、女中と愛人の荷運び人足、サンチョまで巻き込んだ寝屋の大騒動を引き起こした。更に見回りの捕リ手も加わり、やっと現実に戻ったキホーテは、宿賃も払わず逃げ出す始末………。  
 キホーテの決定的な時代錯誤と肉体の脆弱さが、この後も行く先々で、嘲笑の的になる。その後の出来事は見てのお楽しみということにするが、やがて旅路の果てに、正気を取り戻したキホーテは、騎士道という理想と夢の終焉とともに、病に冒され、死の床につき、悲劇的な結未を迎えるこどになる。  

終わりに   

 人間の性格には「ハムレット型」と「ドン・キホーテ型」があると譬えられます。40余年前に『ハムレット』を演じた仲代達矢が、『ドン・キホーテ』に挑み、喜劇性と悲劇性を合わせ持つ「ドン・キホーテ」像をどう構築するか、期待されます。また、名演初登場の山谷初男(サンチョ・パンサ役)との絡みも、楽しみです。  
 なお、私事ですが、丁度43年前(1964年8月例会)、名演に初入会したときの作品が仲代さんの『ハムレット』だったことに、何か因縁を感じつつ、稿を終えます。(文責A.U.)


解 説

『ドン・キホーテ』からもらったもの

ー荒唐無稽は嫌?ー  

 17世紀、中世の騎士道を描いた本が流行した。スペインの地方郷士アロンソ・キハーナ(ドン・キホーテ)は、騎士本に夢中で読み耽り、すっかり騎士になりきってしまう。火薬や銃が戦いの主流になっている時代に、20〜30キロの重さの古い甲冑を身につけ、錆びた槍と盾を手にして旅に出た。それだけでも荒唐無稽、尋常ではない。  
 その旅の途上、塩漬け肉を売る娘を「想い姫」と決め込んだり、風車を怪物と見立てて突っ込んだり、安旅籠を城だと思い込んで宿賃を踏み倒したり等々、次から次へと奇想天外な行動に出る。そのたびに、周りの「常識人」を驚かせたり憤慨させたりするのだが、本人は飄々としている。騎士たる者の道に従った行動であると主張する。  
 滑稽極まりない奇行が続出する様子に、読者(私)は音を上げそうになる。「つきあっていられない」と。内向的なハムレットにも外向的なドン・キホーテにもなりきれない、つまり、とことんその方向に突き進めない凡人(私)は、揶揄や批判をすることで中間人であることの不安をかわそうとする。そんな苦悩を背中合わせで、台本を読み始めた。

ー充実して生きれば、死すとも満足ー  

 何度目かには、台本の中のキラリと光る言葉に付箋を貼りながら読んだ。読み終えて、その付箋の数の多さに驚いた。  
 表現が美しい。豊かな言葉が散りばめられている。機知に富んでいる。優しさに満ちている。自分の行為の理由を説明するドン・キホーテの言葉、サンチョ・パンサのちょっとしたしぐさや発言、行く先々で出会う人々(キホーテを大切に思う人から悪党やずる賢い人達に至るまで)の鋭い表現。会話は、面白さがいっぱいだ。人間の本質を突いている。これが、セルバンテスの、そして、台本にした岡山矢さんの意図しているものではないか。  
 岡山さんは、この芝居のポイントとして、「理想を胸に抱いて生きることと全然持たないのとでは、大きな違いがある」「理想は理想、現実は現実として、リアリスティックに人間を見る目がある」ことを挙げ、面白さの原点がここにあると話された。臨終の場面のキホーテのセリフには、自分の夢「人間と人生の理想郷」を追って生きた人の鮮やかさがある。文明の恩恵にどっぷり浸り、それによる弊害が続出する現代、そんな中に生きる私達が忘れかけている「大切なもの」が何であるか、考え直す機会になるかもしれない。

 ー理解者がいることの幸せー  

 キホーテは、またとない従者を得た。キホーテを「殿様」と呼び、彼の言葉に信頼を置き、彼のせいで危険な目に遭っても決して怒らず、彼を見放さず、ひたすら付き従っていく。  
 人は、自分が困難の中にあっても、理解してくれる人がいることを知っただけで勇気が出る。また頑張れると思う。キホーテにとってのサンチョ・パンサは、まさにこの上ない理解者だったに違いない。また、仲代達矢にとっての岡山矢さんも、仲代さんのドン・キホーテに託す思いを汲み取り、長〜い物語をギュッと凝縮して、仲代さんの実力、ドン・キホーテの魅力を輝かせる台本に仕上げたことで、すばらしい理解者である。  
 思い込んだらひたすらそれに邁進していくところが、仲代さんとキホーテの共通項だと岡山さんは話された。仲代さんの役者人生の到達点になるのではないかとも。  
 そして、サンチョ・パンサを演じる山谷初男さんの存在感も見逃せない。仲代さんにとっての山谷さんも、良き理解者、この上ない相棒になってくれている筈だ。  

ー装置や道具の面白さー  

 舞台や小道具は、ここでは書けないが、とても面白いものになりそうだ。
 舞台の人と一緒に、遊びながら楽しみながら、しみじみとしたものが感じられたら、最高だと思う。



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